社会の歯車?会社の歯車?

就活生時代、「社会の歯車になるの嫌だなぁ」と言う人が大嫌いだった。

しかし、今自分自身で「歯車嫌だなぁ」と思ってしまう時がある。

 

学生時代と社会人でこんな変わるものなのか!と思ったがどうやら自分の考え方次第ではないかと思い始めた。

 

 

世のため人のための経済活動=社会の歯車

私が社会の歯車になるのを嫌がる人たちが嫌いだった理由がある。

世の中の正当な金儲けは結局誰かのために何かを行った報いとして最終的に自分に返ってくるものだ。

いくら働くのが嫌で嫌で仕方なく、毎日ストレスを感じながらもお金がもらえている。

それは、少なくとも誰かの役に立った結果だ(もちろん法の範囲内で)。

 

会社に入って働いてお給料をいただく。それはすなわち社会のために行動した結果だ。

世のため人のために皆が活動することで社会はまわっているのだから、社会の歯車になることをどうしてそんな嫌がるのか。

嫌がるどころか、嬉しく前向きにとらえるべきではないか。

 

と私は、就活生時代に考えていたし、今でもそれは間違っていないと思う。

 

 

自分が歯車と感じるとき

そんな考えをしている私だが、自分が歯車に感じて、毎日が窮屈でつまらないと感じる時がある。

上司や偉い人たちが急に集まると「何があったんだ。」、「異動の話だったらどうしよう。」、「転勤を言い渡されたらどうしよう。」などというような考えがよぎってしまうことが多々ある。

また、50歳近い上司を見ていても、更に上の偉い人たちの一言一句に非常に敏感になっている。

そんなことを感じ、見ていると、

自分の運命が自分ではなく偉い人たちに握られている、会社の中のちっぽけな一人で、土日の楽しみのために日々過ごしているだけでないか

という考えになってしまう。

 

これはまさに歯車だろう。

世のため人のためなんて毛頭なく、ただ自分の保身のことばかり考えて、

偉い人たちの機嫌が自分の仕事のモチベーションになっている。

昔自分が嫌いと思っていた人物像そのままだ。

 

 

考え方次第

自分なりに考えるとこう感じてしまうのにも訳があるという結論に至った。

私は、営業のような顧客の感情を第一線で感じることが出来ない間接部門に所属しているからだ。

そりゃあ依頼される相手はいつも社内の人間だし、内勤が多いと政治色も多くなる。

だから仕方ない部分もある。これからはサラリーマンである以上なかなか逃れられないだろう。

 

社内の人間からの依頼を顧客の依頼と変換してこなせばだいぶましになる。

自分の価値を感じることが出来る。

ただ、もっと会社のためでなく、世の中のためになっていることを実感できる仕事がしたい。そんな悩みは消えない。

会社の歯車から逃れられないのではなく、逃れるか逃れないかは自分の意志にもよると思う。

 

とにかく自分の価値を社会に還元して世の中をよりよくする歯車になるべく日々精進。